2006年5月 5日 (金)

第108若潮丸の雄輝の最後

雄輝に持たせたデジカメに、写っていた雄輝の最後の写真です。

雄輝は、何処でも、直ぐ友達を作るタイプです。

デジカメに有りましたが、1枚だけ抜粋します。

インドネシア人2名と雄輝です。

親の欲目でしょうか、雄輝が、少したくましく、見えます。

この時は、楽しく過ごしていた様に、思えます

私が、最後に、3分刈で、頭を刈りましたけど、

結構、伸びている様です。

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2006年5月 3日 (水)

初めてブログを見てくださる方々へ

平成18年3月10日より、ブログ作成始めましたが、文が沢山になり、初めて私達のブログを見てくださる方々が、何処から見れば良いのか、何を訴えているのかが、判らないと思いまして、5月10日が雄輝の三回忌なので、今回、まとめさせてもらいます。

私達は、このブログでも述べている様に、海難事故の悲惨による、本人は元より、遺族も、やり場の無い憤りなど、述べているつもりです。

この様な、亡骸も無くなる様な、労災事故が、少しでも無くなる様に、皆様に訴えていく所存であります。

又、船主側も、海難事故が、いつ・何処で・どの様にして起きるか、判らないのが、労災事故です。

私達は、船主など、海難事故を、皆が一丸となって取り組み、海難事故について、少しでも、減少する様に、今から先、活動を続け、私達の様な遺族が、一人でも無くなる様にと、願いを込めて、このブログを立ち上げました。

場所は、日本より約1、2000kmの大西洋です。

マダカスカルより、約2、000km沖合いで、 又 一番近くの島まで約500kmの所です。

水温は、13度位で、この水温13度に於ける生命維持は、約6時間が一杯です。 (勿論、救命胴衣着用の場合)

水温13度は、3時間で、振るえなどが無くなり、自分で生きるなどの思考能力も無くなるのです。

勿論、船会社の説明によれば、一人作業だったので、転落場所の特定は、定かではありません。

その時は、船主側の00専務は、波が無かったので、一人作業・作業用救命衣未着用で、甲板作業をさせました との言い訳の言葉だけです。

国土交通省海事局による、船員労働安全衛生規則の中には、波がない時など、一人作業・転落防止柵・作業用救命衣未着用で、甲板作業を、させて良いという事など、全く、書かれていません。

テレビなどで、良く見かける救命胴衣にしても、未着用での甲板作業など、良く見かけられますれど、労災事故など起きた場合、法律が、いかされてきます。

又、周りに何があるか、考えれば、海上保安庁などが言っている、海のシ-トベルトは、何を指しているのか、船に携わっている者は、当然、守りべき鉄則である。

では、作業用救命衣は、この船自体が、転覆などのおそれがある以外は、使用出来ないのでしょう。

この会社自体、作業用船と旅客船と混合しているのでは、ないでしょうか。

船主の責務は? 又 船長の責務は? この会社自体には、存在していないのでしょう。

今から掲載する事は、私達の雄輝に対する人柄など、皆様に判って貰う為に、書きますから、宜しくお願いします。

雄輝が幼い頃より、私が、船などに乗せて、魚釣りに連れて行き、海に親しみをもたせていました。   子供達も、海に親しみ感を持ち・・・

その為、水泳教室など、幼い頃から、行かせていました。

私は、米粒一粒に7人の神様が宿っていると、幼い頃より、祖父などに教えられ、育ってきました。 

私は、子供達についても、ご飯など食べる時は、中学校まで正座で、肘をつかず 両手で、しっかり茶碗など持って、食べる様に躾けました。

子供達は、私が幼い頃言った事を、守ってくれました。 それ程、素直で、良い子供達です。

私達は、子供達には、沢山の思い出を作ってあげたいと思い、出来る限り、海・山・川・公園・遊園地・動物園など連れて行き、楽しませました。

兄弟二人が、年子なので、双子の様に、いつも一緒に遊んでいて、弟思いの兄・兄思いの弟でした。

私が、雄輝達を子供の頃から、船に乗せ、魚釣りなど連れて行き、釣った魚を、その場で食べさせたり、雄輝自身、泳ぐ事が好きだったからなのでしょうか、中学時代には、漁師になりたいと、言っていました。  私達には、漁師など、縁の無い職業でした。

その為、中学2年では、進学校を決められない生徒が、沢山いる中、雄輝は、早くから、宮崎海洋高校の進学を決めていました。

宮崎海洋高校では、航海(船長に、なりたい)を選考し、危険物・潜水士の免許取得

卒業後、乗船1年9ヶ月で4級海技士・3年で3級海技士の資格も取得 口述のみの、権利もありました。 

宮崎海洋高校では、寮生活だったので、先輩からの躾け・後輩へのいたわり・寮での集団生活の厳しさを身につけ、親の有り難さを、人一倍、感じていた雄輝でした。

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2006年4月13日 (木)

亡き者に、された雄輝18才

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雄輝は、日本より約12、000km離れた、マダカスカル沖約2、000kmの洋上で、水産㈱ 第108若潮丸 庭月野忍船長 及び 漁労長、操業中にて、安全配慮義務違反 、又、 船員労働安全衛生規則違反 にて、転落事故死しました。

この海域では、南半球なので、雄輝の転落時の季節は、冬に向かっています。

第108若潮丸は、時速で書きますけど、 (船舶は、1ノット 1,852m) 第108若潮丸は、約10ノット位と思います。 (時速18Km  1日 24時間X18km=480km)

雄輝の転落の場所まで、日本から、約25日位だと思います。

これで判る様に、雄輝が、本格的に仕事を始めて、約1ヶ月足らずの事故です。

この様な状態で、水産㈱ 00専務は、雄輝が、海洋高校で、実務経験があった為、

一人作業・ 作業用救命衣着用などの船員労働安全衛生規則違反などを、実務経験が有ったので、違反作業をさせた。 

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2006年3月23日 (木)

  海難事故当時の様子

平成16年5月10日 いちき串木野市に本社がある 若潮グル-プ 若潮水産㈱等の説明による転落事故報告

マダカスカル沖、約2000kmの洋上にて、・・・・・5月10日22時10分頃、S41.40 E52.30付近にて甲板員(眞田雄輝)18才が、揚縄作業中に行方不明となった。

 

船内をくまなく捜索するも見当たらず、海中に転落したものと思われる。

 

眞田君については、5月10日20時10分頃(日本時間)甲板上で全員揚縄作業に就き、本人も元気で仕事をしていた。

 

本人は、22時頃船尾に浮き玉を収納しに行ったが、22時10分頃、甲板上へ復帰するのが遅いのに気付き、直ちに揚縄作業を中断し、全員で船内のあらゆる個所をくまなく捜索すると共に、

本船は直ちに反転して現在捜索中。 付近全船に捜索を依頼、特に社船3隻(8号・82号・128号)が近くで操業中のため、捜索の応援を求めた。

 大変な事故の発生となり、申し訳ございません。 現在の海上模様 西南西の風 風力3 天候 曇り 気圧 1003Hp 水温 13.0 発信人 船頭

上記の赤文は、第108若潮丸船員海中転落事故に関する通信

私達遺族が、後で判った事ですが、転落事故当時の現地時間では、約午後、16時40分頃と思います。 

又、海上保安庁警備救難部救難課 (監修)  社団法人日本水難救済会 (編) 国際航空海上 捜索救助マニュアルによれば 

水温13度の人の生存率は、海水温度10~15度の生存可能な時間は、6時間未満 (約3時間で有効な動きなどが、出来なくなる、又、身震いが停止する)

 

この様な場所では、上記にある様に、水温13度自体、陸上より危険度は、数倍の危険の上で作業しているので、

人の命の事を考えると、船主側、又、船の責任者たる者、安全の上にも、安全を重ね、一人作業をさせ、

又、作業用救命衣を未着用で、作業をさせるという事は、私達遺族に対しての裏切りである。 

父は、風呂に水を張り、私に氷を沢山入れさせ、水温13度になるまで、氷を入れろと言い、でも、家には、あまり氷が無かったので、

父は店に行き、氷を買って来る様に言った。でも、なかなか、水温13度は、出来なかった。

16度位下がりましたけど・・・父の唇の色は、真っ青になっていました。

 

でも、父は、雄輝は、これ以下の海に見捨てられて居ると・・・つぶやきながら、黙っていた・・・ 

南半球の5月からは、日本と反対で冬に向かっているのです。 

又、この南緯40度近くからは、世界の難所の吠える海・怒る海・狂う海と呼ばれている

全く着用など、頭からさせた事は、無いと聞き、私達遺族は、遺憾に思っています。

コメントの方も宜しくお願いします。

私達が、横須賀の戦没者慰霊祭に帰りながら、見た風景を見て下さい

Photo_1 雄輝が、宮崎海洋高校でハワイより立ち寄った、三崎港です。この時も、他の高校の船が停泊していました。

Photo_2 しまなみ海道の生口島の耕三寺です。外国より取り寄せた、大理石で造っています。

175_149 耕三寺  中も、とても見ごたえがありました。近くに行く事がありましたら、寄って見ると、いいと思います。

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2006年3月21日 (火)

 亡雄輝の家族の苦悩

私達も、本当は、平成16年の盆は、初盆とは、判っていても、私達の気持ちが、それを認める事が出来なかった。

この文を、読む人は、私達が、矛盾しているのでは無いかと、思うかも知れません・・・(平成16年8月22日お別れ会)

平成16年暮れも近づき、世間の人達は、正月などの準備などで、慌しくしている中、私達家族は、亡雄輝の事を思うと、いたたまれませんでした。

平成17年の正月は、雄輝が他界しなくても、私達家族とは、当然、いっしょには、正月は、出来ません。 

でも、私達家族は、判っていても、雄輝が他界をしているので、本当に、私達家族が正月を祝って、亡雄輝が、怒らないかと思う心がありました。 

次男が平成16年の10月に突然、精神的な病気になり、緊急入院を余儀されました。

私達の子供達は、今まで病院にかかった事が無かったので、私達は、何をどうすれば、良いか、戸惑いを隠す事は、出来ませんでした。

  

私達は、雄輝が生きながら、水温13度の異国の海で、

(私の母親も平成16年6月に、雄輝を思ってばかりいて、こけて、3ヶ月余りの入院をしました。)

この様な理不尽を、私達は、受ける理由は、全くない。この様な理不尽が通れば、世の中から、社会的ル-ル (法律) 今の世の中、人の命は、周りを見れば判る用に、法律でがんじがらめに成っている。

平成17年5月10日、雄輝の一周忌には、雄輝の同級生・下級生などが、家にわざわざ遠い所から、来てくれました。同級生達も、まだ、雄輝が他界した事を認め様とはしません。皆の顔を見ていたら、私達は、胸が締め付けられる思いがしました。

雄輝の友達の方が、よっぽど、社会的大人である。)

  

平成17年5月12日横須賀で船員戦没慰霊祭があるとの事で、雄輝の為、少しでも雄輝が成仏が出来る様に思い、私達夫婦で、行きました。私達は、 雄輝の干支が丑 (牛は、ゆっくりと、争いを好まず、人の為に役に立てる) の為、私達は、車で行っていたので、天満宮(菅原道真公)に寄り、牛の絵馬・置物などを、集めながら帰りました。 

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  遠洋マグロ船にて亡骸の無い18才7ヶ月のお別れ

又、親は、子供の成長と立派な船乗りになる姿を、思っていた。私達は、雄輝に対して、平成16年5月29日、認めたくないが、弔いをしてあげました。

又、次男である息子にも5月28日に、礼服を一式買いに行き、17才の息子に対して、礼服を揃える、親の気持ちが、若潮グル-プ若潮水産㈱は、皆無。

17才の息子も、成人式の服より先に礼服を着る気持ちが、この会社には、無い。

平成16年6月27日、 

私達は、雄輝が亡くなった事は、認める事が出来ないけど、親としてするべき事をしてあげたくて、49日の法要をあげてやりました。少しでも、亡雄輝が成仏出来る様に・・・・

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平成16年8月22日、お別れ会をしました。 お別れ会にあたり準備をしなければ、なりませんでした。宮崎海洋高校に行き、先生方に都合を聞いたり、バスの準備は、私達の方でするので、沢山の先生に来て下さいと伝えました。 雄輝の保育所の卒園式に私達が、雄輝の記念に、彼岸桜を植えました。私達が再度、保育所に雄輝の他界の報告と、お別れ会の日にちを伝えに行くと、男園長さんは、涙を流しながら、他の桜は、枯れるのに、私達の植えた、雄輝の彼岸桜は、毎年、咲いていると話してくれました

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雄輝は、小学校1年の時からの恩師には、毎年、年賀状を出していました。恩師は、雄輝が写真入りの年賀状を出していたので、雄輝の成長を見るのが、わが子の様に、楽しみにしていました。

小学校・中学校・高校の同級生・寮生と皆に伝言が伝わるか心配でしたが、お別れ会の日に沢山、来てくれてたので、良かったです。服装も卒業したばかりなので、礼服を持っていないと思い、普段着でも構わないと、伝えていましたが、皆、雄輝に対して、礼儀をわきまえ、それなりの服装で、来てくれました。 (若潮水産㈱に、これが、人としての常識ある姿である事を見せてあげたかった。一言の、ああ 無理でしょう、の発言があった、あの人道に、外れた者達には、お別れ会は、知らせるつもりは、無い。)

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葬儀屋さんに、雄輝の棺おけ・骨壷・霊柩車は、要りません、と言わせる、W水産㈱は、絶対に親として、許す事が、出来ない。 お別れ会に来てくださった人達に、雄輝の子供時代から今までの成長の写真を見て貰い、色紙に一言づつ、雄輝の思い出を書いて貰いました。607

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この写真は、雄輝に対しての、親として、出来る限りしてやったつもりです。

_8 この、戒名は、海洋院雄照輝孝信士・・・雄輝が、海が好きだった、雄々しく、輝き、親孝行の証で、つけて貰った戒名です。違反操業が、無かったら、親より先に行く、親不幸は、しなかったと思う。      

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2006年3月18日 (土)

雄輝、家族の思い

平成16年2月21日・・・今日は、雄輝と船に乗せる荷物の確認・整理をしながら、沢山あるけど、船に乗せるのに大丈夫なのか。でも、この品物も有った方が良いよね。と揃えると、やはり、たくさんの荷物になりました。雄輝が自分で判る様にコンポしていきました。そして、この日に、宅急便屋さんへ焼津の方へ配達を頼みました。

平成16年2月22日・・・今日は、祖父母の家で過ごしました。僕が、立派になって帰ってくるのを、病気もせずに、元気で待っていてね。お土産も沢山、買ってくるからと言ったとの事。従兄弟達にも、勉強頑張れ。これから社会人だから、お年玉、あげるから楽しみにしとけよと話す。

平成16年2月23日・・・今日はビリヤ-ド・卓球をしました。ビリヤ-ドは、海洋高校時代に親友や寮生と行ったりしてて、雄輝が私達に教えるから、行こうと誘ってくれたのです。お父さん・弟は、始め、玉が当たらなく、皆で笑いました。結構慣れるまでは、難しいもんだねと話す。その中、雄輝は、慣れていたので、こつを教えてくれました。  卓球の方は、した事がなく、雄輝と弟は、当てるのに一生懸命でした。卓球に関しては、私達の方が上手でした。    _037

平成16年2月24日・・・今日は、ボ-リングへ行きました。ボ-リングも親友や寮生と良く行くので、僕が一番上手だと思うよと言う。最後だから、沢山したいと思い、5Gしました。最終結果は、お父さんが一番でした。雄輝は、今日は、調子良くなかったと話す。私達は、雄輝が上手だと思っていなかったので、こんなものだと思っていました。後に親友に話を聞くと、一緒に行ってて、雄輝が一番上手でスコアも良かったとの事でした。その時は、雄輝は、お父さんに鼻を持たせたのかなと感じました。                        _057    

24日夜、 雄輝が、お父さん、出発が近いから、今から、髪の毛を切ってくれるけ、と私に言う。私は、二人の子供の小さい頃から、髪の毛をずっと切っていたので、雄輝に、長さは、どれ位がいいとかと聞くと、雄輝は、一番短いのでいいからと言う。一番短いのは、3分刈と言うと、雄輝は、うん、それでいいと、私に頼む。私は、風呂場で、雄輝にお前も、外国に行ったり、筋トレが、出来たりするから、頑張れよと、笑いながら、雄輝に言った。雄輝も、にこっとした。妻は、一緒に風呂に入りながら、つんでやったらと言う。私は、懇情の別れじゃあるまいし、縁起の悪い事言うなと、妻をおごる。雄輝が、呼んだので、頭をつみ始める。その時、自分の心の中に何か、判らない気持ちが走る。雄輝の頭をつみながら、ちょっとした、怪我などに負けるなよ。お父さんも、昔から、怪我などあるけど、痛みというものは、どんな怪我でも一週間くらい我慢していれば、痛みは、なくなる。一番、痛いと思う歯の痛みでも、2・3週間で痛みは和らぐ。でも、どうしても、痛みが、取れない時は、船長などに痛み止めを貰えよと笑いながら教えてやる。今まで、子供に対して、こんな昔話を、した事がないのに、後で、何故、そんな事を言ったのか・・・でも、何かが・・・判らない。雄輝が、何かしら、男らしく見え、雄輝なら頑張り抜くと思い少しは、安心をした。私の心の中の何かが、あった様な自分では、判らない気持ちがよぎる。

平成16年2月25日・・・今日は、最後の日で昼は、弟と、ワイヤ-刺しの練習をしながら、話していた様でした。夜になると、従兄弟達が雄輝兄ちゃん、最後の夜だけど、皆で行っていたゲ-ム屋さんへ行こうと電話があり、私達も一緒にいきました。雄輝も最後で、楽しそうに、やっていました。従兄弟達に帰ってきた時も来ようね。元気で、がんばれよ。と話し、帰りました。この夜は、明日、出発との思いで、不安もあった事でしょう。夜、遅くまで、弟と話をしていた様子でした。 私達も、明日は、早く出発するので、早く寝ようとしていたが、何故か、眠れなく本当に雄輝は、いいのか二人で、夜遅くまで話していた。でも、雄輝の昔からの夢、希望であるから、これで、良かったと二人で話し、いづれは、親の元を旅立つので、雄輝の夢が、少しでも近づいたと思いながら、眠りについた。

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平成16年2月26日・・・今朝は、家族4人が早く目が覚め、皆が雄輝に対して、一言頑張れよと言う。雄輝も、俺も、頑張るから大丈夫と言う。私が、車にエンジンかけに行く。皆が出てきたので、玄関で記念撮影をする。弟が、雄輝に、頑張って来てねと声をかける。雄輝も、弘俊に、お前も頑張れよ。雄輝が、弘俊に、お父さん達を頼むからねと言う。私が、雄輝に、夕べ遅くまで、弘俊と話していたと言うと、雄輝は、うんと言う。眠ければ、車の中で、寝てもいいぞ・・・私が、バックミラ-で、後ろを見ると、雄輝は、眠っていた。昼近くになったので、バイキングの店があったので、車を止め、昼ごはんを食べる。店には、雄輝の好きな桜餅などがあり・・・でも、雄輝は、食べなかった。他の肉や寿司など色々とあったが、余り食が進まなかった。私が、妻に雄輝が居ない所で、雄輝は、余り食べんねと尋ねると、妻は、先ほど、炭酸類を飲んだばかりなので、食が進まないと雄輝が言っていたと言う。でも、私は、心配で、雄輝に、腹はいいとかと尋ねると、雄輝は、今は、うん、まだいいと言う。腹が減ったら、早目に言えよと言うと、雄輝は、うん、大丈夫と言う。  夕方、W水産の事務所に着く。事務所の前で記念撮影をする。事務所に入り、会社の者に、雄輝の事を、宜しくお願いしますと頼む。雄輝に、頑張れよと言い、余り長いをすると、私自身、何か辛かったので、席を立ち、そのまま事務所を出る。私達は、もう一度、事務所の前で事務所を見る。私は、何か、いたたまれない気持ちに襲われ、涙が出そうな気がしてならなかった。私も、初めての経験なので、判らない・・・本当に、これで、良かったのか、あとがみがひかれる思いが強かった。今、考えると、この様な㈱W水産に神様達が入れるなと、教えていたのではと思う。でも、取り返しのつかない事を今考えると、したのである。私達は、雄輝に対して、すまない事をしてしまった。でも、雄輝の夢を親が、潰す訳にもいかない。俺達は、雄輝に対して、徹底的に戦い、雄輝に本当の誠を見せる。今考えると、俺が、雄輝の頭の毛を刈ったときの頭の毛を、直しておけば、雄輝の形見として、俺が、生きている間、身につけておけたのに・・・でも、こんな事になるとは、親として考えは、つかなかった。これが、昔の人が言った、後の祭り・・・

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雄輝が出発した後、二人で、世界地図を買い、㈱W水産の第108若潮丸の3月3日後の航跡をデバイダ-で計り、だいたいの速力を測り、地図上に書き込み、今、雄輝は、だいたい、この辺を走っているだろうと、想像しながら、近くの島などがあれば、インタ-で、そこの地域検索をするのが、私達の日課になりました。親子3人の仕事の写真を撮り、今度の転載がある時、雄輝に送ってやろうと、思っていた矢先、平成16年5月10日、雄輝の転落の電話が㈱若潮水産よりある。

雄輝自体、転落後、絶対に生きたかった。でも、生き様としても、その糧が無かった。何故なら、4隻居ながら、雄輝が生き様とする糧を、何もしていない。それどころか、第128若潮丸に対して、対策本部は、一日だけの捜索だけで、・・・マグロ釣りをしろと打電した。(後は、大海の中で、たった3隻)その時、ブイなど多数、海中に投棄してれば、雄輝が見つけて、浮く事が出来たはず。しがみつく物が何も無い海中で、どんな思いでいたか。でも、僚船4隻は、それを望まなかったのか。何もしていない。これでは、雄輝が生き様としても、諦める他なかったと思う。

私は、雄輝が海中に沈みながら、笑顔で 「お父さん・お母さん、ごめんなさい」と言って暗い海底に沈む夢を見た。それが、航海時の雄輝の最後の姿の夢です。その時、雄輝が、家に帰って来たのだと思います。 

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